山田洋次監督が初めて撮った時代劇映画にして、日本のみならず海外でも高い評価を受けた作品。真田広之、宮沢りえがすばらしい。時代劇として見るとひたすらに地味だが、そのぶん心に沁みるものがある。
幕末、現在の山形県、庄内地方の海坂藩。貧乏な御蔵役、井口清兵衛(真田広之)は労咳で妻を失い、男手ひとつで幼い娘ふたりと痴呆の母を養うのに必死であった。そのためたそがれ時の定時になると、仲間の酒の席の誘いも断り、とっとと帰らねばならず、仲間からは「たそがれ」とあだ名をつけられていた。
親戚が勧める再婚話にも首を縦に振らなかった清兵衛だが、再会した幼馴染の朋江(宮沢りえ)と、互いに惹かれあうようになっていた。
ところが、ひょんな事から買った決闘騒ぎの助太刀で相手を打ち負かしたことが知れ渡り、清兵衛は謀反人の討手として抜擢されてしまう。断ることができず、討手の任を受けた清兵衛は・・・・・・。
武士の一分がなかなかの人気なので観てみようと思ったが、ならばこの機会に山田洋次時代劇3部作をまとめて観てみようじゃないかと、そういうことで手に取りました。
結果これはなかなか面白い。
時代劇という大枠のなかで考えてしまうと、かなり地味な印象を受けるのだが、本作品の本分はそこではなく、清兵衛の生き方を描くほうにあるのだと考えれば、地味さはむしろ当然。
清兵衛の生き方は、侍というよりはかなり現代人にとって共感のできる形ではないだろうか。
滅私奉公タイプの美談とは遠いスタイルで、彼の生き方はひたすらに娘たちの幸せのためという、わかりやすい家庭人なのだ。
厳しい動乱の幕末の中で、幸せとはなにかを彼の目を通して模索してゆくのが今回の映画の本筋なのだろう。
全編東北弁(庄内弁?)で、宮沢りえもあの特徴的な「○○でがんす」と、私らの世代では怪物くんのオオカミ男の印象が強烈な言葉を使うのだが、宮沢りえの口から出るとこれが実に色っぽいというか情緒深いよい言葉に聞こえてくる。
不思議なものだ。
清兵衛の娘たちの東北弁もなかなか達者で、ただものではない。
演技もなかなかあっぱれでほほえましかった。
最後の決闘シーンがなかなか迫真。
人間、抜き身を振り回して命のやりとりをするときにチャンチャンバラバラと綺麗にゆくものでは決してないとは、どこかで読んだ。
特に今回は御前試合のような形の整った試合ではない。
足はもつれ、息も絶え絶え。腰は抜けたようにお互いへたり込みながら汗みずくになって刀を振る。
まったくカッコよさなどどこにもない決闘だが、それだからこそ「らしい」。
全編、真田広之と宮沢りえの魅力的なキャラクター像が輝いている。
清兵衛と朋江の、純朴でつつましやかで、しかしとても頑固な生き方が、なかなか胸を打つ作品となっている。
むしろ普段時代劇を観ていない人にお勧めかもしれない。