政治モノかと思いきや、実はなかなか面白い愛憎劇。
それが実は裏返って政治的なメッセージを隠しているという、逆転の発想はけっこう新鮮でした。
なるほど、こういうガンダム劇もあったのか〜と。
ファーストシーズン感想はこちら。
【ネタバレ注意!】
■見所一杯
いや〜なかなか面白かったですよ〜。
見所一杯。
ファーストシーズンでいろいろと準備した伏線が次々と花開き、どんどん展開してゆく様子はとても見応えがありました。
お気に入りは序盤、アレルヤとソーマ・ピーリスあらためマリー・パーファシーの結ばれるところ。
ここはもう涙ナシには観られない感動でしょう。
二人の和解が丁寧にじっくり描かれ、悲しみが溶けてゆくような優しさがとっても暖かかったです。
私は富野カントクのシンパですが、でも今回のガンダムが富野カントク(特に黒トミノ)じゃなくってよかったな〜と思ったのは、黒トミノだったらまずこの二人(あるいはどっちか)は終盤でブチ殺されてるでしょうからね(笑)。
そういう悲劇は最高に美しくもありますが、彼らがつつましやかながらもちゃんと幸せを手に入れてくれたという喜びは、とても捨てがたいものがありました。
ああ、ちなみに今回の00でどのヒロインが好きかって、わたしは文句なしダントツにマリーです。
雨宮さん(リンク先、PSYRENの重要なネタバレあり)といい、こういう二重人格系が好きなのかもしれませんな(笑)。
もひとつお気に入りは、ティエリア・アーデとリボンズの華麗なる舞踏会の駆け引き。
これはもう素晴らしい緊迫のドラマでしたね〜。
リボンズの古谷さんもティエリアの神谷さんも張り詰めた名演技。
そしてまた、足をもつらせ倒れるティエリアを強引に引き上げるところに垣間見えるリボンズの傲慢さ、という演出のキレ。
その後の邂逅でついに明かされるイノベイターの陰謀と言う衝撃もあり、この話はセカンドシーズン前半のベスト3に入ります。
また、大迫力だったのがメメントモリ攻略戦。
長大な軌道レール沿いに突進する戦艦とそれを迎え撃つ防御線の息詰まる、そして疾走感満点の戦いはとても見応えがありました。
迫力があると言えば、ダブルオーライザーのライザーソード、でしたっけ?
あの大気圏外まで届いちゃうというメチャクチャな長さのビームサーベル(笑)。
あれはあまりにバカデカ過ぎるスケールに、笑いを通り過ぎてカッケーー!!ってなっちゃいますね。
はい、超お気に入りです(笑)。
そして、わけもわからず感動してしまうのが、ブレイクピラー事件。
崩壊した軌道エレベーターからの膨大な落下物を、敵味方が力を合わせて迎撃すると言う逆シャアオマージュ。
こういう、敵味方越えて…みたいなのは無条件で感動してしまいます。
また、見逃せないのが、それにからめて描かれたクーデター派とアロウズの高度な裏の駆け引き。
クーデターを起こしたのは6万人の人質にアロウズのやり口を見せつけ、その後解放して世にこの事実を広めてもらうためだったという、作戦の妙。
それをいとも簡単に、とんでもない残酷さで捻じ伏せてしまおうとするアロウズ。
この対比は明暗くっきり分かれていてなかなかに刺激的でした。
そしてこれが、民衆を動かし、大きな歴史のターニングポイントとなってゆくという所も忘れてはいけないでしょう。
で、ラストはお見事。
古谷さん演じるリボンズがファーストガンダムそっくりなオーガンダムに搭乗し、刹那のエクシアと決闘。
そのアクションひとつひとつが逆シャアの対サザビー戦や、ファーストの対ランバ・ラル戦を彷彿させるポーズだったりと、逐一サービス満点。
そこだけじゃなく、セリフの端々にアムロを想起させてくれるのも面白かったですね〜。
アムロが 「僕にはまだ帰れる所がある。こんなに嬉しい事はない」 だったのに対し、リボンズが言ったのは 「僕はまだ戦える!」。
アムロがア・バオア・クーの最後でニュータイプ能力を発揮して成し遂げたのは、仲間達を脱出させ無事に家に帰らせる事でした。
でも、リボンズは違う。
まだまだ僕は戦場で戦うぞと。お前らを家には帰らせんぞと(笑)。
素晴らしい対比のオマージュですよ。
ここまで観てきたファーストファンが報われる瞬間でしょう。
■テーマとして
さて、そんな感じで見所もいっぱいあり、キャラクタードラマも魅力的でかなり楽しめたのですが、作品テーマとしてはどうだったのでしょうか。
『武力による戦争の根絶』 を唱えて、突如世界中の紛争に介入を始めたソレスタルビーイングのガンダムたち。
戦いで戦いを世の中からなくすという、大きな矛盾をかかげて始まったこの物語は、いったいどこへ向かい、どういう着地を見せるのか。
それこそがテーマなんだろうな〜と思って観ていた訳ですが、最後の最後までなかなかその答えを見せなかったこの構成は面白いものがありました。
沙慈・クロスロードは刹那・セイエイと共に戦いながらも、「戦いからは何も生まれないよ!」 と引き裂かれた恋人を説得してテーマを全否定。
かと思えば、刹那は世界の歪みを正すために武力を振るうことに一切の迷いなし。希望はその果てにあると信じて疑いません。
ファーストシーズンでのソレスタルビーイングの行動が、世界を大いに歪みに導くことになってしまったと分かっていながら、その贖罪のために戦いを始めたセカンドシーズンの刹那たちは、結局同じような事を繰り返すばかり。
その理念は、いったいどこにあるのか。
結局、戦いで戦いを終わらせることは出来るのか。
世界は歪んでいると唱えながら、では、どのような世界にしたいのか。
その政治的ビジョンは?
戦後もソレスタルビーイングとして活動してゆく彼らは、世界の警察を自称していた頃のアメリカなのか。
では、その世界の警察の善悪は誰が判定するのか?
イノベイターだけが希望なのか?
今回はリボンズが傲慢さをあらわにする独裁者であったから、彼が一手に悪役を引き受け、彼が否定されることで話は収まったものの、もし彼がパーフェクトな統治者であったとしたら、人類は彼に全てを任せてしまってよかったのか?
それとも、真のイノベイターであった刹那こそが 『ガンダム=解放者』 であり、人類は彼に導いてもらい、人と人とが誤解なく真に分かりあえる新しい時代を迎えるべきなのか?
いろんなことが提示されては過ぎ去ってゆき、最後までテーマの答えが見えない、ちょっと難解なドラマであったように思います。
いろいろ悩んだのですが、今のところ私が出した答えは、「このドラマはそれに答えを出すものではなく、視聴者に答えを出させるためのものである」 でした。
実際の戦争を見てごらんと。
世の中毎日のようにテロや紛争が起き、どこかで人が死んでいるじゃないですかと。
その人たちの顔を想像してごらんなさいと。
その現実を、しっかり想像し、考えて、この答えを出して欲しいと。
そういうのが、この作品を通して制作側が視聴者に問いかけたいテーマだったのではないでしょうか。
よく考えてみると、色んな物事がそれに結びつくと思うんですよ。
まずは、沙慈がわかりやすいですね。
それまで戦争をどこか他人事としか考えられなかった日本人の少年、沙慈・クロスロードが、数奇な運命から戦争の中に放り込まれて知った現実。
自分の想像力に欠けた行動が、ひるがえって人の命を奪ったりもするという、とてつもない厳しさ。
そして、そこにいた人たちは、みな因縁に悩み、苦しむ人たちばかり。
戦争の中、テロの中、死んでゆく人たちはただの数字じゃないんですね。
毎日のように、イラクやアフガニスタンでテロが起こり、数十人の死傷者が出ました、なんてニュースが流れますが、ああ、またかと何も感じずスルーしてしまう感覚への警鐘。
一人ひとりに顔があり、人生があって、その人生は人と人の繋がりで出来ていて、そこには因縁であったり愛憎であったり、色んなドラマがある。
そこで死んだ人たちは、みんなそこで生きていた 「人」 たちなのだと。
全体として、そういうことを描くため、キャラクターの因縁をあえてドラマチックに誇張したストーリーだったと思うのです。
■因縁を描くドラマ
今回のガンダムが、ガンダムものとしてとても特徴的だな〜と思った事がひとつありまして、それがキャラクター達の 『因縁の多さ』 なんですね。
いや、私は 『W』 は20話くらいまでしか見てませんし、『SEED』 はまったく観てないのでその二つは除外しますが、そのほかと比べて明確に違うなと感じました。
主要登場人物が皆、必ずと言っていいほど深い因縁の相手がいるんですね。
それは復讐の相手であったり、逆に追ってくる者であったり、敵味方に分かれてしまった恋人たちであったり、母を見捨てた父に恨みを抱く息子であったり、戦うことしかなかった自分を愛情深く育ててくれた養父に対する思慕であったり。
そしてそのドラマが、劇中描写でとても大きなところを占めているんですね。
この多さはおそらく、確信犯なんだろうなと思ったんですね。
戦場で交錯する命、散ってゆく命は、ただの数字じゃない。
それは人と人とがつながって絡み合っている命なのだということを、明確にするために描いているのだと思うのです。
そして、それを無惨に散らせてしまうのが、『戦争』 にほかならないのだと。
戦争やテロについて考えることは、まずそれを知ることからしなければ、ただの思考ゲームになってしまう。
まずはとにかく、そこで何が起きているか、その人たちはどんな人たちなのか、それを知りましょうよと。
今も世界ではあちこちで少年兵が戦いに駆り立てられ、その数は25万人とも言われています。
世界には、なんと25万の刹那がいるんですよ。
戦場やテロで死んでいるのは、ロックオンであり、アレルヤでありマリーであり、セルゲイ中佐であり、スメラギさんなんですよ。
そう思うと、私はいてもたってもいられなくなりますよ。
作中、子供達が言ってますね。
仲良くなるためには、どうしたらいい?と聞くマリナに対し、「一緒にお歌を歌ったり〜…」 と。
そういう事なんですよね。
一緒に歌を歌えるくらい身近に相手を考えること。
そこを忘れて戦争のことを考えても、何も始まらないんでしょう。
そここそが、このガンダム00のメインテーマなのではないかと、私はそう受け取りました。
この方法論、面白いと思いますよ。
政治ドラマはあえて背景にしておき、主として因縁が絡み合うキャラクタードラマをメインに描き、実はそれが最後にひるがえって政治的メッセージとして収斂するという逆転の構図。
おそらく、こういうキャラクター因縁ドラマというのは、今回の監督・水島精二さんや全編ひとりで脚本を書ききった黒田洋介さんの得意分野なんでしょうね。
こういう得意分野で勝負して、ガンダムらしさに迫るというのは、なかなかよい戦法だったなぁと思うのです。
いや、なんか偉そうに語っちゃってますが、あくまで私個人の勝手な解釈であり、受け取りようは人それぞれですので念のため(笑)。
■劇場版は?
とまぁいろいろ考えたわけですが、ただ、これはまだ途中の着地点なのかもしれないんですよね〜(笑)。
ラストシーンの、あの“宇宙の声”はいったい何だったのか。
あれですよね〜。
ソレスタルビーイングがどうして組織されたのか。
創始者イオリア・シュヘンベルグが考えていたこととは。
今度の劇場版は、そこをついに明かしてくれるかもしれないんですよね?
そうなんですよね?
ついに、真の戦いが始まるってことですよね?
いや〜、それによってはこれまで描いてきたことは、ただの前提条件に過ぎなかった、な〜んてことにもなりかねないと思うのですが。
現在のところ、イノベイター(リボンズ)による人類統治という政治方法論は否定され、代わりに提示された平和への道が、真のイノベイター、刹那による共感現象だったわけですよね。
あれはおそらく富野ガンダムにおける“ニュータイプの希望”と同じようなところに位置しているものだと解釈したのですが、事によると劇場版でそこが覆るかもしれませんしね。
さぁ、どうなるのでしょうか。
劇場版が楽しみです。
ただまぁ、よくあるパッケージ商法の、劇場版の完結編を見ないと話が終わらない、というタイプじゃなかったのがよかったですね。
ちゃんとスッキリ物語として終わってますもの。
ここで終わったって何も悪い事はない。
そういう良心的な作りをしているところなど、なかなか好感度高かったです。
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従来のガンダム的展開なら「因縁が戦いを呼びそこから新たな憎しみが生まれる、悲しいね、人間って救いがないね」となるところを、「ちょっと待って。お互いの想いが通じ合う奇跡が起こったら戦わなくてすむんじゃね?人間ってそれくらいにはマシな生き物じゃね?」と一歩進めたものを見せてくれるところに、ooが新しいことをしようとしている意思を感じました。ドロドロの結末が好みの人には肩すかしだったでしょうけど(笑)
長文すみません。いつも更新楽しみにしてます。
どうなんでしょうね。ここのところは。
逆襲のシャアのサイコフレームの力による共感現象とは違い、24話のGN粒子による現象(トランザム・バーストだったかな)は作中の描写を見る限り、どちらかというと「通信メディア」みたいなものだったようにも思えます。
相手の思考を伝えることは出来るけれど、共感能力まではないのかなあ、と。
だからこそ誤解や「ごまかし」が解消されたアンドレイやビリーとは和解できたけれども、根本的に価値観の違うサーシェスとライルは、その力があっても何の効果も得られなかったのではないかと。
GN粒子という新しい「通信メディア」は『対話』の象徴で、アンドレイ:マリー、ビリー:スメラギの「脳量子派」による対話を描くことによって、「解り合う」事の可能性をスタッフは伝えたかったのではないでしょうか。
ただし、00はただ希望だけを描いた訳ではなく、そうやって『対話』の大切さ、その可能性を示しておきながら、直後にサーシェスやリボンズのような「対話しても決して解り合えない存在」という『現実』のシビアさもまた描いたのではないかと感じました。
それとは逆に、蘇生したルイスを抱きしめた時の沙慈の言葉、「何も言わなくて良いんだ」。
これにより、対話などなくても理解し合う関係までも描き、「対話」を絶対的なモノとはしないように思慮しているような気がするんですよね。
そして、最終話のマリナの刹那への手紙の中で述べられた「平和を願う気持ちは同じなのに、解り合っているのに、どうして私たちの道は繋がらないのでしょう」という言葉。
「対話」をし、解り合っていても、手を取り合って生きていける訳ではない。この台詞にはそんなメッセージまで込められているように思いました。
結局、刹那は、対話の大切さに気づきながらも、「戦い続けること」を自らの意思で選び、マリナはそんな生き方を最後まで否定し続けました。
アロウズの打倒では共闘したマネキン准将も、最後まで「CBは倒すべき敵」というスタンスを崩さなかったですしね。
そこからは、「対話して解り合うことは大事だよ。でも現実的には難しいよね。たとえ解り合っていても共に生きられるとも限らないし」という、ある意味では当然とも言えるような答えしか見えないですよね。
実際この最終話を見て、「50話もやって結局振り出しに戻っただけじゃん。刹那もCBも何も変わってないし」という方も中にはいますから。
00はBOSS様の仰る通り、「正しい生き方」や「正しい答え」を示すものではなく、多くのキャラクターのドラマを描くことで、視聴者に考えてもらうことを目指している感じですね。
なんだか書いていてグダグダになってしまいました(汗)
言いたいことが伝わらなかったらごめんなさい。長文失礼しました。
富野ガンダムと00の大きく違うところは、富野ガンダムは主人公が保守側の尖兵となって、革命勢力と戦うのに対し、00は自分達が革命勢力ってところだと思うんですよ。
ガンダムは全作品を大雑把にくくって考えると、人の世の悲劇を無くすにはどうしたらいいのかというところをテーマとしていると思うのですが、旧来のガンダムだと、世の中を変えようとしない保守を主人公勢力にしていたところが大きなジレンマになっていたんじゃないかと。
それじゃ、いくら頑張ったって世の中よくなりませんものね〜。
今回のような革命側を主人公とするほうが、テーマとの相性がいいんだろうな〜と感じました。
>長文すみません。いつも更新楽しみにしてます。
いえいえ、長文大好きなので遠慮なくどうぞです^^
応援ドモです!
元気が出ます!
>キンカクさん
GN粒子が通信メディアだというお話は、そんな感じなのかな〜と私も思います。
ひとつ付け加えるなら、「人をちょっとだけ素直にする効果」 もあるんじゃないかな〜と、観ていて感じました。
刹那とリボンズ、サーシェスとロックオンに関しては、彼らは互いをたとえ誤解なく理解しあい、共感しあったとしてさえ殺しあうんじゃないかと想像しちゃいます。
彼らの利害は、ある意味そこで一致しているんじゃないかと。
権力を欲する者と、それを阻止する者。
戦いを欲する者と、それと決着しようとする者。
対立しているようで、戦わなきゃ!っていう目的では両者一致していると思うんですよね。
ただまぁ、彼らにGNドライブの効果がなかったようなところを見ると、あれも万能ではなくって、元から対話がなりたちそうもない、そういう要素のない二人の間では発生しない現象なんでしょうね〜。
おっしゃるように、対話へのアンチテーゼみたいな、端的な象徴なのかもしれませんね。
「対話」というキーワードで読み解くキンカクさんの00解釈、とても興味深く、ひとつひとつなるほどと思いました。
なるほど、「対話」が解決のひとつのキーワードじゃないだろうかというのが、制作者側が現在のところたどりついたアプローチなのかもしれませんね。
でも、それも絶対のキーワードじゃないのは当然制作側としてもわかっていて、その上でどうしたらいいんだろうかと、視聴者に投げかけているのかもしれません。
なかなか、面白いですね。
私がガンダムシリーズが大好きなのは、こういう、「人」 をテーマに、いろんな事をけっこう真面目に考えられる作品だからなんですよね。
こういう作品シリーズって、なかなかないですよ。
>なんだか書いていてグダグダになってしまいました(汗)
>言いたいことが伝わらなかったらごめんなさい。長文失礼しました。
グダグダなんてとんでもない。
「対話」に主題を集中した素晴らしい解説だと感心しきりでした。
またよろしければ、長文でも短文でもお待ちしております^^